私の履歴書15(46)

中学3年生の一年が始まった。成長著しいこの時期は、まさに日に日に身長の物理的な伸びを実感できる時期で、毎朝起きるたびに今日も伸長伸びたなー。なんて感じていた。

最近は、10歳になると二分の一成人式などをやることが流行ってるようだが、私たちは14歳の時に、立志式というよくわからないイベントを行っていた。おそらく昔の時代に元服する年だから大人だからなんだとかかんだとかと、いう具合の大人都合のイベントだ。

バンジージャンプをやってみたり、一人で獲物を狩りに行ったり、そういう精神的な儀式が大人になるために必要なのかはわからないが、周りもみな声変わりもほとんど終えて、見た目の外見は、顔を除いてはほぼほぼ大人とさほど変わらない年頃になっていた。

と、同時に勉強についていけない生徒の中には、反社会的な行為を行う生徒もちらほら耳にするようになった。万引きだったり、タバコを吸う生徒も実際に私の付き合いの友人にも何人かいた。

「ダメだよ。そんなことをしたら!」なんて、ことを注意をしたりはしなかったが、自分は絶対にせず、こいつらあほだなー。と、思っていた。

当時はなんでこの人たちは、わざわざこんな小さなことをするんだろう。と、思っていたが、今になって思い返せば、当然のことだろうと思う。

世の中には勉強が得意な人も、得意じゃない人もいるのに、ただただ勉強という能力だけで人を判別し、序列を社会はつけていたのだ。

もちろん勉強が世の中の役に立たない。なんて、いうつもりはない。実際に必要なことではるのだから、それを「可視化」することは大切だろう。

ただし、これは社会人になってからもそうだが、あるルールに基づいて序列をつけるなら、明確なルールとサポートが必要だ。

勉強ができない人は、なぜ勉強ができないかというと、そもそもやり方がわからない。と、いう点と、中学生以上になっている場合、小学生の内容がすでにわからない。つまり、学校の授業すべてがミスマッチ。と、いう状況に陥ってしまっているからだ。

しかし、日本の教育は、無駄に「平等」を謳っているため、誰もが平等に。の、部分が、勉強ができない人たちを逆に生み出してしまっているのだ。しいたげられた人々は、おとなしくそれに無気力で従うか、自分が考える新しい秩序を生み出すために、戦うか。その二つしかない。

最近話題になっている、出家騒動も、アメリカ大統領の誕生も、すべて虐げられた人の新しい価値の獲得に向けての戦いで説明できると思っている。

形だけでなく、世の中の平等を本気で目指していくのであれば、すべての多様性を認め、すべての弱者へのサポートを(才能のある、恵まれた人)こそが、率先して実施していくべきなのだ。

中学3年生は、また受験生の季節。初めて勉強という価値観で社会から評価を受ける中学生にとって、そういう意味での教育はまだまだ少なかった。それなりの才能を持ちながらも、結局勉強をしなかったローズは、初めての挫折を迎えることになる。