私の履歴書21(52)

高校1年生は、最も時間に恵まれた時期だった。高校受験も終わって、勉強はしなくていい。塾は私立に入ったんだから、当然辞めさせられる。部活は学校が強すぎるからとても入る気になれない。(と、いうか能力が無いと入れない)通学の時間も片道10分足らず。

自分のしたいことを自由に許された時期である。これこそまさに「ゆとり」だろう。

このころの楽しみといえば、まず睡眠だった。単純に新生活の疲れというものと、成長期が重なっていたからなのか、どれだけ寝ても寝ても寝たりなかった。

高1の秋までは、ほとんど平日は9時くらいには寝ていたのではないだろうか?起床するのはもちろんぎりぎりの8時過ぎだ。天国過ぎる。

そして、相変わらずゲームや漫画も楽しんだが、高1になると、テレビに割く時間がかなり多くなっていた。そう。漫画やゲームや音楽と同じく、日本のテレビ業界も、失われた20年に花開いた文化があったのだ。

私が享受したテレビ時代は、たけし・さんまタモリのBIG3の黎明時代からダウンタウンウンナンとんねるずの3強の時代から緩やかにスタートし、メインはフジテレビと日テレの視聴率争いに、テレ朝、TBSの新人放送作家が入り乱れるまさに戦国時代だった。

当時の流行は、ドキュメントバラエティ。土屋プロデューサーが作り上げた、電波少年ウリナリの社交ダンスバラエティから、片岡飛鳥プロデューサー式のめちゃイケSMAPライブ乱入などが大流行だった。

少年ジャンプと同じく、「頑張ればきっといいことがあるよ」「夢と感動が生まれるよ」と、いったメッセージは、音楽や漫画だけでなく、最大手のマスメディアからも、日本全体に発信され、また、そこに多くの人が感動・共感をしていた時代だった。

今では見るも無残な月9などのドラマにも、まだまだ勢いがあった。今までドラマなどほとんど見たことが無かった私でも、漫画の影響からか、GTOは、かなり楽しみな時間になった。

言いたいことも言えないこんな世の中じゃ。と、いう主題歌の時代も、今ではツイッターで何でも言えてしまう時代になったが、果たして言いたいことを言えるようになった私たちは、幸せになったのだろうか?

あまり語らないかもしれないが、私は、テレビ番組が大好きだ。特にあこがれるのは、明石家さんまさん。プレイヤーとしても一流だし、何より多くの人を「活かそう」という意識も見習っている。

私たちの時代のお笑いは、厳しい言葉での突っ込みやいじりが主流だったので、ついつい私もメイド喫茶では、厳しい言葉遣いをしてしまって、反省をすることが多い。

「いじり」と「いじめ」は紙一重。なんて、言葉があるけれど、私は「いじり」は「いじめ」にほぼ近いと思っている。いかにそれで笑いが取れたり、好感度が増したとしても、自身が傷ついたことと、それで得たものは、トレードオフの関係にならない。そもそもの「質」が違うからだ。本人が嫌だと言っていることは、いつだって、どんなことだって嫌なんだと、思う。

私は「笑い」も資本主義の考えなんだと思う。「笑い」と、いう資本主義構造、誰かが定めたグローバリズム構造に身を任せ、時には強引に巻き込み、強制すれば、富めるものもいれば、貧するものもいる。そこで嫌なこともあるけれど、それと同じくらい何かを得られるからそれでいいじゃない。と、考える人もいれば、プラスなんてそもそも生まなくていいから、マイナスの無い。平和で平穏で平坦な世界が良いよ。と、考える人もいる。

どちらが正しいかはわからないけど、過去にはきっと前者の考えが主流だったし、今はきっと後者の考えが主流なんだと思う。

絶対的王者だったさんまさんの好感度が今は落ちている。と、いうのを聞くと、正直寂しい。確かに彼は、時に強引だし、いつもうるさいけど、彼の周りの同業者への目線には愛があふれている。

だけど、今の社会は、それを感じ取れない社会になってしまったのだ。

メイド喫茶もずいぶん変わったな。って、思う。今のメイド喫茶で「君、全然可愛くないね」なんて、言ったら、冗談でも本当に出禁になってしまう世の中だ。

確かに、彼女たちの気持ちはわかるけど、最近とみに、「ファンのあるべき姿」を定義する、メイド、アイドルを見かけると、うんざりする。それならそれで別に構わないけど、そこで「演じられない」「本当の私」「と、いうかむしろキラキラした私だけ」を見つけてほしいと、言われて、どこが一体楽しいのだろうか?

最近、芸能人がどんどん事務所を辞めたり、独立したり、出家したりしているが、背景にはきっと、それだけ我慢ならないのっぴきならない事情があったのだろう。

私たちが享受した素晴らしい日本は、多くの犠牲のもとに成り立っていたのかもしれない。資本主義は、必ず誰かや何かを犠牲にして成り立っている。

まだ、何も知らない私たちは、その犠牲のもとに成り立った文化を大いに楽しみ、自分たちが消費される番になると、そんなのはおかしいと思います。と、喚き散らし、犠牲にならない。

いやはや、なんとも素敵な時代に生まれたような気分になる。

言いたいことを誰もが言えば、幸せの総量は上がったのだろうか?下がったのだろうか?

理論的には前者のはずだが、後者のように感じる私は、やはり恵まれた環境で生きていたからだからだろうか?