私の履歴書34(65)

2001年といえば、なんといっても、9.11の世界同時多発テロの時代だった。無知でおろかなローズは、画面の前から広がる衝撃的な映像からも、リアリティを感じることができず、ただ、アメリカも何かと大変だな。くらいの感想しか持てていなかった。

今までは狭い狭い空間に閉じこもっていた高校生活から、急激に交友関係も活動範囲も拡大され、目の前の生活に必死だった大学1年生には、無理もない話かもしれない。

学校に、部活に、バイトにと多忙な生活を送っているように見えるかもしれないが、大学生活は、それなりに趣味に時間を費やせた貴重な時期でもあった。

そもそも、大学生とは、前期が4月~7月、後期が10月から2月前半しか授業が無いので、8・9・2・3月は、ほぼ暇である。これに祝日と土日が加われば年の半分くらいは休日なのだ。

自由な時間があった時に、とにかく都会?で、最初にはまったことはカラオケだった。

恥ずかしい話、田舎には、そんなにカラオケボックスというものが無い。今は、チェーン展開するお店が郊外店にも進出しているが、当時は、カラオケは田舎では珍しい存在だったのだ。

もともと歌が好きだったローズは、当然のごとく?カラオケにドはまりした。当たり前だが、今も当時もカラオケといえばひとりである。

駅前のピエロというカラオケ店は、最大8時間までフリータイム500円で行けたので、休日は、8時間、本当にひとりで歌いっぱなしの時間を過ごしていた。

当時の私の持ち歌は、GLAYとXJAPANとhide。浅く広くはまるよりも、狭く深くはまるタイプなので、基本的に好きになったアーティストは、シングルB面・アルバム曲をふくめてほぼすべての曲を歌うことができた。

Xは、そんなに曲数が多くないので問題ないのだが、当時の時点でもGLAYは、200曲近くあったので、1曲4分と考えても、8時間では、到底すべての歌をうたうことができなかった。

最初は、お気に入りの歌を順番に入れていたりしていたが、何度か足を運ぶうちに、何を歌うかを考えるのが面倒になり、ア行から、順番に入れていく。と、いう作業的な歌い方をしていたが、当時の私は何が楽しかったのだろうか???

そんな感じのことを、暇な時期は週に1~2日もしていたので、GLAYの曲なら、ほぼすべての曲を、歌詞を見ないで歌うことができた。

そもそも、ひとりでカラオケをしていると、自分でどんどん曲を入れないといけないので、歌を歌いながら新しい曲を入れなくてはいけないことになる。楽しい。と、いうよりは、義務感と作業感でいっぱいだ。

おかげさまで?カラオケで歌をうたうことの意味については、かなり意義深く考察する時間を持てた。

個人的には、カラオケは、演劇と一緒で、歌は台本だと思っている。そして、本というものは、勉強と同じで、読むだけでは自分の中に落とし込めず、やってみて初めて価値が出るものだと思っている。そう、「わかる」と「できる」は違う。と、いうやつだ。

演劇でも、歌でも、アイドルでも、漫画でも、本でも、ゲームでも、メイドでも、「表現の手段」が違うだけで、根本を表しているのは、目の前にいる「人間」だと思う。

同じ台本のセリフを読み、同じ衣装をまとっていても、目の前にいるのは、その演技を通じた「人間」であり、不思議とその人間の「生き様」が透けて見えてしまう。

歌も同じだと思っている。ただ、音程やリズムを合わせればそれでいいかというと、それは、違うと思っていて、そのメロディ、歌詞を自分で解釈して、表現することによって、その歌を書いた人の気持ちもわかるし、それを「そう解釈した自分」を発見することができる。

日記と同じかもしれないが、ひとりカラオケも自分と向き合う作業なのだ。

そういう観点で歌をとらえているので、個人的には、採点機能で点数をあげようとすることに、喜びを感じている人がいまいちわからない。

別に機械が何点をつけようとかまわないじゃないか。音程が外れていようと、リズムが狂っていようと。その歌を、そのように感じ、そのように表現したいならそれでいいじゃないか。だって、それが自分なんだから。

こういう観点でカラオケに行ってくれる人がいたらいいな。と、思うのだが、今までそういう人に出会ったことが無いのが残念である。

複数でカラオケに行くのは、悪くないが、誰もが知っている曲で、うわべだけ盛り上がって何が楽しいのだろうか?誰も知らない俺だけの歌を、俺だけの解釈で聞かせるような。そんな付き合いがしたいと思うのだが、それは贅沢なのだろうか・・・。