私の履歴書35(66)

ずっとあこがれていた東京生活も、あっという間に、1年が過ぎ、ローズは、大学2年生になっていた。

19歳の誕生日を迎え、いよいよ20歳の成人になろうという年だったが、ローズは、この年から、急に大学に行くことを辞めてクズ中のクズの生活を送り始めることになる。

どうして大学に行かなくなったかは、今となってもよくわからない。あえて言えば本能的に違う。と、思った。としか、言いようがない。

別に勉強が著しくできないわけではなかった。確かに、バイトやサークルにかまけて、勉強をおろそかにしていた面はあったが、単位自体は、すべて取得をしている。

確かに友達は少なかった。だが、少ないながらも、ある程度話せるし、尊敬できる先輩がいる居場所も見つけていた。

誰かに何かを誘われたわけではないが、ちょうど時代は、お笑い芸人ブームであり、その背景にある「放送作家」という存在が認識され始めた時期でもあった。

なんとはなしに、ネットを眺めてい時に、文化放送の「放送作家育成コース」のキーワードが検索に引っかかった。確か週に1回、年間20回前後のコースで20万円くらいの金額だった。ローズは、無意識に参加を申し込んでいた。

今になって考えれば、そもそもこんなものに申し込んでいる時点でセンスが無かった。2000年くらいから、ユーキャンや漢字検定の資格試験が流行り始めるように、お笑いで言えば吉本のNSC以外にもお笑い学校を始めるプロダクションが増え始めた時期でもあった。

ダサいなぁ。と、昔の自分を思ったりもするが、今まで何も考えずに、「勉強」と、いうかなり開拓された分野しか歩いてこなかったお坊ちゃまからすれば、それは確かな一歩に繋がったので良かったかもしれない。

第2期だったか3期だったか忘れたが、放送作家というマイナーな職種にも関わらず、講座の受講者は、全部で30人近くいたのを覚えている。

そこには、私のような放送作家なんて今まで知らなかったよ。と、いう人間から、すでにある程度の知名度を築いているお笑い芸人、ハガキ職人まで様々な人間が混じっていた。

全体的に塩嶺は、20代中盤から後半がほとんどで、ローズの19歳は、おそらく最年少の年齢だったと記憶している。

講座の主体となっているのは、東京フレンドパークや、オールスタークイズ感謝祭などの製作を手伝っている、作家事務所だった。この講座の成績次第では、事務所に入所できる。と、いうのが、お笑い事務所主体などの育成コースの一番の売りだった。

放送作家とは、何かというと、端的に言えば放送に関する文章を書く仕事である。一番王道なのは、テレビの台本を作成すること。当たり前だが、テレビは最初から最後まで一言一句セリフが定められているものなのだ。(アドリブで内容通りにいかないことがほとんどだが。)

また、ロケ先での台本ももちろん書くし、ロケ先で撮った映像を、ディレクターが編集しそこにさらにナレーションをつける仕事なんかもある。

ナレーションの仕事は、グルメ系の番組だったり、動物の生態を追う番組などでかなりの重要性を占めることになる。

上記の仕事が放送作家の主な仕事なのだが、そこから広義の仕事として、企画・立案の仕事や、クイズ番組のクイズの作成、情報番組であれば、その信憑性の裏を取るリサーチャー的な仕事まで、さまざまだ。

華やかな会議などをイメージして参加をしたが、どの業界・どの業種も、下働きとか地味な作業というのはつきものだ。こういうセミナー系の講義は、派手な講師が、あることないことをまくしたてたふわっとしたもので終わるケースが多いが、この講座は、地味なものばかりだったのはある意味良かったな。と、思っている。

当時はまだまだその意味を理解できていなかったが、その時に学んだ、会議でのファシリテーション技術、アイデアの発想法はのちの仕事にもしっかりと活かせているので、30万円は、決して無駄ではなかったと思っている。

そうして、20歳になるローズは、今までとまったく違った、放送作家(を目指す)生活を始めることになる。