私の履歴書6(37)

小学3年生は、メガネを初めてかけた年だった。中学生も過ぎればメガネをかける人も増えてくるが、小学3年生でメガネをかけるのは私がクラスで初めてで、初めは本当に嫌だった。確かにゲームを多くしたり、漫画を読むほうではあったが、なんで私だけ?と、納得できない気持ちのほうが強かった。気づけばメガネを身体の一部として25年。結婚で言えば今年銀婚式を迎えるほどの長い付き合いだが、メガネは私の確かなアイデンティティの一部となった。

2年生から3年生になり、メガネもかけたことによって、だいぶんインテリ?的な雰囲気を醸し出したような気もする。ある意味その他の子供たちとの差別化だ。3年生からはクラスの学級委員を選ぶようになり、その後は毎年学級委員を務めていた。

大人になると毎日、毎日が忙しく、やりたいことができない気分になるが、子供のころは毎日何をしていたのだろう?と、思い返すと、私は個人的には小学生の頃のほうが、だいぶん忙しかった記憶がある。自分で望んだのか、親が通わせたのかは不明だが、基本毎日何かしらの習い事があった。

ピアノ、水泳、書道、公文、そろばん、塾、など年代によって変化はあるが、週に6日くらいは毎日どこかへ行っていたと思う。ひどいときには、一日に2つの習い事をかけもちしていた。

この中で、ピアノだけすぐにやめてしまった。ローズは手先が大変不器用なので、両手の練習に入ったところから、まったく弾けなくなってしまったからだ。幼稚園の頃でも折り紙の時間が大嫌いで、ずっと泣いていた記憶がある。そもそも幼稚園生がペンギンなど折れるわけがない。大人になった今だって鶴も折れないのに。

逆に水泳はよほど教えるほうの腕が良かったのか?選手育成コースまで進んでしまい、週に4回も通っていた。小学校4年生で個人メドレーとしてすべての泳法をマスターしていたし、股さきですんなり足が開くほど体は柔らかかった。

のちに教育の仕事に携わるが、「教え方」というのは、かなり先生によって差が激しい。だから、親は先生に任せっぱなしにするだけでなく、しっかりと状況を把握することが肝心だ。特に子供のころに、初めてチャレンジする内容で「成功体験」を積めばその子供によって大きな自信になり、ほかの生活まで良い影響を与えることができる。逆に子供のころに「失敗体験」をしたのちに、それを放置すると一生残るトラウマとなる。極端な話をすれば、その子の人生を左右するとまで感じる。最近は、お金を払って自分の子供の教育を放棄している親が多いと感じるが、習い事などは、親の教育を「補佐」するものであって、あくまで教育の主役は「親」であることを忘れてはけないと今となっては思う。

私の親は、そこまで深い考えで私に様々な習い事をさせたとは到底思えないが、たまたまであるにしろ、私に色々な経験をさせてくれたことには、かなり感謝をしている。普通であれば「無限」にある子供のころの時間だが、私にとっては「工夫」をしなければ、自分が自由にできる時間を生み出せなかった。物事をこなすのが早かったり、要点をとらえるのが上手いのは、幼少期にわりとハードなスケジュールをこなす経験をしたからだと思っている。だからこそ失ったものはもちろんあるとは思うが、「ゆとり教育」で育った今の若い人たちを見ていると、「自由」は、「なかったからこそ」ありがたみがわかるものだと今になっては思う日々である。

気づけば昭和の時代も終わり、消費税も導入された平成の時代。失われた日本の栄光はまだ光り輝いていた平成4年に続く。

>プリンセスあおい

まさかのまだ見ていたとは驚き。\(^o^)/今はどこで何をしてるの??\(^o^)/気が向いたらまたいつでも遊びに来てね。今でも忘れないでいてくれてありがとう。\(^o^)/