私の履歴書13(44)

中学2年生になったが、基本毎日の生活はさほど変わらなかった。あえて言えば、勉強が難しくなってきたので、周りの成績が落ち始めて、相対的に自分の価値が上がったのが少し嬉しかった。

相変わらず勉強はほとんどしていなかった。授業中は先生の話はほとんど聞かず、半分は、妄想をしながらずっとひたすら時計を眺めていた。確か1時間が50分授業だったので、5分進むたびに、10分の1進んだぞ。やったね。とか、15分経ったら今日の三分の一が終わったぞ。25分だと50%だ。なんて考えていた。時間の無駄すぎる。

残りの時間はさすがにぼーっとするのも飽きるので仕方がないので、ひとりで教科書や資料集を読んでいた。自分で勝手に連立方程式を解いたりしてた時は、これ考えたやつ天才だなー。なんて思っていた。

学級崩壊。などという言葉はまだなかったものの、おそらくみんな思い思いに妄想などをしていたんだと思う。皆が真面目に授業を聞いていれば、もっと成績はいいはずだ。せっかくの若い時間なのに、なんて人生の無駄遣いをしているのだろうか?と、大人になると改めて思う。

今の子供たちだったらこっそりスマホでもいじっているのだろうか?そちらの方が一見有意義に思えるが、自分から情報をアクセスするのではなく、狭い世界で受け身の情報を受け取っているだけだったら意味がないな。とも、思う。クリエイティブじゃない。

思えば通学の時間もものすごい無駄だった。私の住んでいたところは、田舎なので小学校も中学校も片道30分はかかっていた。どんなに早歩きをしても20分だ。往復すると1時間ものロスになる。まったく運動をしない今の環境からすると健康的で素晴らしいのだが、少し時間が多すぎると思う。

だが、とはいえ人間は体を動かすと頭が動く傾向もあったりする。暇で暇で仕方がない環境だからこそ生まれるクリエイティブは確かにそこにあった。ただ、誰もがその無敵の力の活かし方を教えてもらえないだけなのだ。実にもったいない。。。

そんな無駄だらけの毎日だが、学校がある日の私の一日の楽しみの時間は、体育の時間と給食の時間だった。給食は、特別美味しいものではないはずなのだが、縛られた?環境で食べる味は、なぜか忘れられない味になるみたいだった。田舎の地域だったからか、おそらくお世辞抜きで美味しかったと思う。とりあえず、あたたかかったし。。。

個人的には好き嫌いが無いので、基本残さずなんでも食べた。友人には、これきらい。あれもダメー。と、いう人が多かったが、周りの余り物はどんなものでも好んで食べた。

さらには、ケーキやデザートの類のものと主食を交換するということも頻繁に行っていた。自分が成長期なのは自覚をしていたので、砂糖や栄養にならないデザートよりも肉や魚が身になると考えていた。デザートを喜んで食べるやつらを見て、こいつらバカだな。と、考える中学生だった。

おかわりももちろんした。おかわりは早い者勝ちのルールの時もあったし、一定時間ののちに食べ終わった人でのじゃんけんなどのルールの時もあった。

当然、デザート、肉、魚は、人気があるので、私は迷わず野菜や煮物など、人気がなさそうなものを狙っていった。

単純に人気の品を狙うと、負けた時に何も食べれない可能性もあるし、そもそも自分が勝ったとしても、別の誰かが食べられない。と、考える。それだけで争い事は、あまりやる気にはなれなかった。

食べ物に限ったことじゃないが、私は好き嫌いが基本的には少なかった。美味しい・まずい。と、いうのは、結局個人の主観であり、ほうれん草は、こういう味。にんじんはこういう味。と、いう客観的事実にしか感じられなかった。

問題は、それを「どう当てはめるか」だ。ほうれん草がほうれん草の味だからこそ活躍できる場を探す。それこそが醍醐味だと考えている。

肉や魚が美味しいのは当たり前だ。だからこそ、そこを消費しなければ、世の中に広くたくさんのリソースが回っていくはずだ。

世の中の偏りを取り除く人がもう少し増えれば。と、中学生の時から考える傾向はあったと思う。のちに転職エージェントとなるが、なかなか自分の性格には合致しているな。と、思う。