私の履歴書23(54)

ヒトは大人になるにつれて自分が凡人だということを自覚していくが、それは私にとっては、高校生の時期だった。

小学生・中学生と特に努力をしなくても勉強という面では苦労をしなかったが、高校生ではそうはいかない。

入学時は、上位30位くらいだった成績も、1年生が終わるくらいには中盤くらいの位置になり、メガネをかけた人は頭が良いよね。と、いう数少ないアイデンティティも失われつつあった。頭のよくないメガネほど価値の無いものはない。

これは、困ったな。と、いうローズに、幸運が訪れた。ローズはすでに特進コースに所属していたが、なんと、来年から特進コースの特進クラスを作るという説明があったのだ。

世の中は、ちょうどドラゴン桜が流行り始めた時期だった。将来の少子高齢化を感じてたのか、私立の高校は、特に進学実績には敏感だったのだ。

私の長所は、恥知らずなところであるのだが、この時にも、その恥知らずな性格が幸いした。なんと、直近の成績では、学年の真ん中程度の成績にも関わらず、進学希望を、スーパー特進クラスで出したのだ。

今、思えばなんと恥ずかしいことだろうと思う。ある日、ローズは、F先生に呼び出された。

「進学希望がここだが、これは本気なのか?」

いきなりの質問に正直戸惑ったが、先天的に持っている「そのばしのぎ」能力で、咄嗟にローズはこう答えた。

「はい。もちろん希望します。私は、厳しい環境で伸びるタイプです。プライドが高いので、全体の中で下位は嫌なので、真ん中以上に入ろうと努力します。スーパー特進に入れば、より自分を伸ばせると思います。逆に今のままだと、真ん中の現状で満足をしてしまうと思います。」

今、思えばこんなクソみたいな説明で、よくスーパー特進クラスに入れてくれたと思う。

私の何を評価したのかは不明だが、F先生には感謝の気持ちしかない。正直、ここでスーパー特進クラスに入ってなければ、私は今とまったく違った人生を歩んでいたと感じている。

そうして私は、2年生からスーパー特進クラスに振り分けられた。そこは、全体で160名くらいいる生徒の中でたった17人しか所属していない特別なクラスであった。

2年生になってからは、私はとにかく絶望し続けた。さすがに私も気持ちを入れ替えて勉強をしたのだが、中間テスト・期末テストと受けるたびに、いつもクラスの順位は、17人中、17位なのだ。

2年生の2学期になるころには、学年全体での順位も上がってきて、学年で17位だったのだが、クラスの順位も17位だった。しかも、16位との差は、想像以上大きかった。まったく意味がわからなかった。

これには、私もさすがにまいった。今まで成績が悪かったのは、「自分が勉強をしていなかった」からだと思っていたが、「私が普通に勉強をしただけ」では、勝てないこともある。と、実感したのだ。

先に結果を言っておくと、このスーパー特進クラスは、過去にない最高の成績をたたき出していた。今まで日大から東大が出ることは、2~3年にひとりだったのだが、私の学年は、東大1・京大1・東工大1・東北大1の現役合格者を出していた。もちろん私も含めてその他の合格者も早稲田か慶応、最低でもマーチには軽く受かっていた。

一応、自分でプレゼンをした通り、だんだんと勉強というものが面白くなってきた。両親からは、再び塾に通うことを勧められたりもしたが、それは絶対に嫌だった。私立の高校に通ってるだけで月7万前後支払っていることに負い目を感じていたし、高校生くらいになると自我の意識が芽生えていたので、「誰かの力」で勝つのが嫌だった。

目の前に、自分より結果を出している「成功者」と直接コンタクトが取れるのはなかなか貴重である。

人見知りで自分からは心を開かないローズも、新しい環境ではどんどん積極的に話しかけた。物事を上達させるコツは、上級者と仲良くなることだ。私は東大に受かったS原君と仲良くなり、年がら年中質問をしまくった。

自分の生活習慣も見直した。受験には朝型が良い。と、いうあまり根拠のない情報を鵜呑みにしたのと、なぜかF先生は朝6時に学校に来ていたので、毎朝5時に起きて勉強し、朝6時には学校に登校するという生活にシフトチェンジをした。

その甲斐あって、2年生の後半になるころには、一桁の順位になることはなかったけれど、10番近くに近づくことができるようになった。

偏差値的には、おそらく10以上飛躍しているだろう。自分自身で考え、結果を出すことができた、初めての経験だった。