私の履歴書31(62)

大学生活もひと段落した5月。大学での授業にも慣れて、部活やサークルにも慣れて、次はいよいよ「アルバイト」を人生で初体験するターンになった。

今は、アルバイトの求人が、ネットなり、ラインなりで選び放題なのでうらやましいな。と、思う。私のころは、紙媒体でアルバイト雑誌を購入するか、新聞の折り込みなどで、探してくるしか探し方が無かった。

やりたいと思うバイトもいくつかあったが、当時の私としては、時間帯が朝に働ける仕事を探していた。

当たり前といえば当たり前なのだが、昼間は学校に行っており、夕方以降にサークル活動をしていたら、アルバイトをするのは、学校に行く前の時間帯しかないだろう。

もともと、早起きは得意だったし、朝が早いと時給も高いので、私は近所のファミレスで働くことにした。

見た目もダサい田舎者だったので、キッチンでの採用かと思っていたが、驚いたことにフロアでの採用だった。

時給は確か820円+200円で1020円くらい。朝6:00~9:00で勤務可能であることが魅力だった。

朝のシフトの時間帯は、私を含めて全部で4人で構成されていた。明治大学の3年生のMさん。Mさんの彼女でめちゃくちゃ美人なお嬢様女子大のYさん。小柄でhideにちょっと似ているフリーターのKさん。

朝の時間帯は、高校生もいないし、やはり人が少ないみたいだった。

初めてのアルバイトは、はっきりいって、楽しかった。別に質的に難しい仕事でもないし、元気に明るく頑張っていれば、成り立つ面が大きい。メイド喫茶ほどではないが、常連さんとも顔見知りになり、時間に余裕があるときには、雑談をするときなどもあった。

朝のファミレスには、たくさんの人が訪れる。すでに仕事人生からはリタイアして、悠々自適の生活を送っているご老人。会社の出勤前に、経済新聞に目を通すビジネスマン。夜勤明けで仕事明けの飲み場を探しているタクシー運転手。朝まで飲んで、そのままの勢いで、フィリピン譲とアフターをしているお金持ち。狭い狭い高校の教室とは違った、世間の縮図がそこにはかいま見えた。

仕事も質は低いが、量がすさまじいのでなかなか楽しかった。井の頭公園近くのファミレスなので好立地で、かなり来客が多い。朝の時間だけでも、多い時には、80人前後は来ていた。テレビの取材などでロケバスが泊まると、一気に20人くらいの来客で水を入れて運ぶだけで一苦労だ。ランチの時間帯には、2時間で200人くらいの客をさばくこともあった。全店舗でも上位の売り上げだったと思う。

周りのスタッフは全員優秀だった。シフトリーダーのMさんは、キッチンもできるし、デシャップ台として、オーダーが立て続けに入り、オーダー表が地面についてしまう注文をきれいにさばいていた。最初に入ったバイトが優秀で忙しいところなのはラッキーだった。これが、私にとって「当たり前」になったからだ。

アルバイトに関する思い出といえば、ひとつ恥ずかしいのだが、「時給」に関する記憶がある。当時、あまりにも世間知らずだった私は、シフトリーダーになると時給って1500円くらいになるのかな?少なくとも、1200円は、もらえるんだろうなー。と、思っていた。

正直、新人の自分とは動きが全然違うし、売り上げの管理もある程度しているし、改善案なども店長に報告をあげているので、大学1年生の私にとっては、すごく大人に見えたし、大人は、それなりの報酬を得ているものだと思っていた。忙しいときに、シフトが伸びたりもしていたが、それは時給が違うんだから当然だろうな。と、思っている自分もいた。

この画面を見ている皆さんなら、ご存知かと思うが、バイトのリーダーになっても、時給なんてさほど変わらない。私とたった50円違いと、聞いた時には、自分の浅はかな考えが恥ずかしいと思ったし、世間ってなんて厳しいんだろう。と、思った。

ある程度仕事も覚えて、ひとりでもシフトを回せるようになった時に、時給をあげてもらったことがあるのだが、「10円」しか上がらないことに衝撃を受けたのを覚えている。

100円上げてくれるとはさすがに思わなかったが、50円くらいは上がるだろうと思っていたからだ。

当時は、学生って、なかなか厳しい仕事なんだな。と、思っていたが、これは、のちに社会人になってその意味を思い知ることになる。月給6000円昇給した場合、180時間労働をしていると、時給で言うと、実は30円くらいしか上がっていないのだ。

たかが10円。されど10円。これから突き進む、究極のデフレ時代におけるお金の価値を、ローズは学ぶことなく、学生生活を送っていくことになる。